「こたえ」を与えるではなく、真ん中に生み出せるようなことばを。

feeling
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答えがない言葉を書きたい。

なにか明確な定義もなければ、はっきりとした目的も持たない、

そういった、いわば宙ぶらりんな言葉、

 

それを書きたい、とこの頃は強く思うようになった。

まるでそれでは日記ではないか、と今まで疎遠に思っていたのだが、

よくよく振り返ってみると、自分の中心から出てくる言葉は

基本的にいつも答えがないことが、わかる。

 

答えがない、よりも

「答えを必要としない」

そういうものに、近い気がする。

 

 

答えを必要とする人へ、出来るだけわかりやすく、

手に取りやすく、そして頭が理解しやすいことばを書いてきた。

ビジネスの場や、自分の潜在意識というジャンルには欠かせない

(のかどうかは未だにわからないけれど、そうであると思っている)

「はっきりとした答え」や

「明確な解決策」というものをひたすら書いて書いて書いてきたこの数年間…。

 

その合間、合間に書く「こたえのない言葉」たちがわたしを癒すこと、

どこかで感じながら知らないフリをしていた。

 

でも、もうどうやらそういう無視は自分自身を押し殺すだけのようで、

途端に「答えの明確な回答」みたいなことをズバーンっと

書く気力が、なくなってしまった。

 

 

心の勉強をして、伝えて、カキモノをして、

講座をして…と、

わたしがそれらを通して一番身にしみたのは

「誰でも常に答えを持っている。あとはそれを表現するだけ」

というひとつの体験的結論だった。

 

だけど、その「本人の中にある答え」を

わたしが明確なことを書くことで、見失わせてしまうことも、しばしばあった。

 

 

例えば感情の説明がうまく書けたとする。

その解説はとても上手に書けているけれども、

肝心な読み手の感情そのものを停止させてしまうこともある。

「喜びを感じることがたいせつです」という解説や、

それをどのようにしたら感じることが出来るのか、という明確な「方法論」というのは、

 

一番肝心な「喜びを感じる」というところから、

わたしたちを一番遠くまで遠ざけることがある。

 

そういう場面に接してきて、またそういう場面を自分の書くものが

生み出してしまっているという光景を見て、

どうもいたたまれない気持ちが募りに募っていたのだ。

 

誰かの中に、残ってはじめて意味を持つ言葉。

文章というのは、書き手がいても存在価値はなく、

意味は書き手と読み手の間にて、発生するものだ。

そういうことを、いつも忘れたくないな、と思うし、

 

答えを明確な文章や解説に載せて説明するよりも、

相手の中にある「答え」にすこし触れるような、

でも確信的ではなく、それを発見し掴むのはあくまでも「相手」であるような…

 

そういうさりげない黒子みたいな存在でありたい、と思う。

 

あなたとわたしの間に生まれるなにか、を思って

今日も書きたい、と思うわたしのリズムに任せて。

 

 

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