「世界観」はまえのめり。

feeling
0435

ごくあたり前に使われている「価値観」ということば。
そして、ごくあたり前かどうかはわからないけれど、

わたしが好きなことば、「世界観」。

この二つは、似ているようで全く違う!
と、1年ほどまでの講座やメルマガの中で伝えてきた。

あえて分ける必要もないと思う人もいるだろうけれど、
実際に自分の暮らしの中で感じる様々なことに対し、

これは価値観だろうか?これは世界観だろうか?

と考えるのはとてもおもしろい。

すごく簡単な説明をするならば、
価値観というのは、その人が「そうである」と思っていること。
「こうであるべき」にちかいし、「そういうものである」みたいな考え方のこと。

わたしたちの多くは、価値観によって突き動かされているし、
この価値観というものもまた、過去の記憶によって突き動かされている。

でも、世界観はちょっとちがう。
世界観というのは、価値観に比べて非常に立体的であり、
その「考え」に似たようなものは、どこかストーリー性を持っていて、

価値観にはない、なにかおいしそうなにおいを漂わせることができる。

料理の絵よりも写真の方がより立体的で
かつ、それが相手に「おいしそう」という感覚を伝えやすいのはなぜか。
きっとそれは、絵よりも写真の方がはるかに「リアル」だからだろう。

また、目の前にある料理の方が、
間違いなく写真のリアルさよりもリアルであり、立体的で
そして、わたしたちを突き動かす。

価値観と世界観も似たようなもので、
わたしたちのことを突き動かすのはいつも世界観のほうなのだ。

この世界観、というのは、
決して平面的ではなく、また二次元的でもなく。

やはりリアルなストーリー性をはらんだ、とても誘惑的な香りがする。

実際に観察してみると、自分の考えの中に
価値観と世界観のはっきりとした違いがあるのがわかる。

そう、いつだって自分を突き動かしてくれるのは、世界観のほうなのだ。

—-

世の中のほとんどの悩みや苦しみ、
答えが出ない葛藤というものは

比重的に価値観が強すぎて、世界観の割合が脳内に少なすぎる故に生まれる
一種のガス欠なんじゃないか、と思っている。

自分を突き動かしてくれ、鮮明な未来像や、
そこから生まれる「今、ここ」のやる気などを与えてくれる世界観の割合が
少なければ少ないほど、わたしたちは価値観の持つ
『良いか悪いか』『正しいか、正しくないか』

の二次元的な世界にやられてしまうのだ。

立ち止まった時、息詰った時、

「わたしが今悩んでいるのは、どんな価値観に縛られているからだろうか?」
と観察してみる。
そのときに、隠れている世界観とやらを一緒に探してみる。

必ず脳内のどこかに隠れているはずだ。
自分を前のめりにしてくれる、あの感覚が。

 

photo by Mizuho Kito

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