「愛し合う」

feeling
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「愛し合う」


愛するとはどういうことなのだろうか、と。
わたしの年齢にしては相応しくないようなことを
ここ数年は考えてきた。

別に、恋愛で苦しんでいるからだとか
そういうわけではなく
もっと広い範囲で、広い意味で

「愛し合うこと」ってなんだろう、と

分からないなりに、その本質を
掴もうとしていた。


もしかすると、
巷の流行にのっかってしまって

「愛することが出来ればすべてがうまくいく」

という幻想があったのかもしれない。

今は思う。

そもそも、

「ある意味」ではすべてがいつもうまくいっているのだから、
別に今さらうまくいく方法など知ることはないのかもしれない、と。



愛し合う、という言葉について考えるとき、
わたしはいつも「ある光景」を思い出す。


父が母を見る眼差し、
それもごくわずかな瞬間で

意識をひらいていない限りすぐに閉じてしまうような光景だ。


おそろしく優しい、だけど
真っすぐ向かい合って見つめあっている時ではなく。

母がこどものようにスネてそっぽ向く顔に
ふと向ける眼差し。


その光景は、おそらく父も母も見ていないし何も知らない。
当たり前だけど、父は自分がそんな顔をしているつもりもないのだろう。

わたしでさえ、その一瞬を見なければその
光景のことはずっと知らないままだったと思う。

それくらいに、儚く、
瞬間的で、かつ言葉にならないような抽象的なひと時だった。


別にそれが特別なものだとは言わない。
ただの優しい顔だっただけで。


でも、その瞬間的な顔というのは
父もなく母でもなく私を癒してくれた。

別の表現で言えば
その一瞬の光景はわたしを
「愛している」という感覚にさせたのだ。


「あー、この光景を」と。


…まぁ、それもまたすぐに
どっかにいってしまったけどね。


自分が誰かと愛し合っていると思える時よりも、

誰かと誰かが愛し合っているの「かもしれない」
と思えるような瞬間に出会うことは
大切なのかもしれない。


自分の外周(外に見える世界)は
ダイレクトに自分の内側(内なる世界)を現してくれる。


だからまっすぐ見つめられて
「お、今わたし愛されている」と感じるよりも

あの人はあの人のことを
とても大切に思っているんだなあ、


と確信じみた光景を探したほうが
わたしにとっては大切なこと。

わたしも一時的にそうだったけど
昔はもっとこう、

「愛しているか、愛していないか、愛されているか、愛されていないか」


という一種の窮屈な世界にいた気がする。
「確認」のステージというか。
愛で自分の存在を計ろうとする、というか。

そんなもんは、この記事でも書いたけど

継続されることが出来ないごくわずかな瞬間に垣間みる光景であって

自分が誰かに愛されているという事実なんて
ほんとうはどうでもいんだろうな、と思う。


記憶は、愛されていたというその断片を探しまわるけれど
ほんらいの私たちは、ハートの奥でそれを知っているから、

今さら自分がどうであるとか、
真ん中の自分は興味ないのかもしれない。


それよりも、もっとたくさん
愛し合っているな、と思う光景がわたしは見たい。


家族の間、とか、
恋人の間、とかだけじゃなくて


ほら、例えばたまに見るじゃない。
道ばたで綺麗な花束をかかえた女性の横顔とか。

信号待ちしている時に空をふと見上げる人の眼差しとか。

講座の時にふと涙があふれる瞬間とか、
その人が自分を越えて殻を破った時とか。

そして、その人を周りが優しく見つめることで支えようとしている空間とか。


そういう一瞬が、わたしは好き。
どうも、その瞬間にその人の「愛している」みたいな感覚が
ひょこっと顔を出す気がして。

真顔で真っ正面から言われるよりも
そういう横顔を探したい、と思うのだった。


まぁ、ただの横顔フェチなのだけど。

そして自分もまた、真っ正面から伝えることも
「愛している、愛されている」なんて認識するために
あれこれすることも
今ではもう、しなくなっちゃったんだけど。

今日も探したいなあ、そういう断片。

そんな意味では愛に飢えているのも悪くないなあ、と思うのだ。


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