「罪悪感」

feeling

罪悪感


わたしはよく、

「罪悪感をあまり感じない」と言うことがある。

いや、このままの意味でとらえられるとちょっと…と
色々懸念する自分もいるのだけど、

本当のことだからしょうがない。

わたしにはあまり罪悪感がないように思う。


もちろん、忘れていない後悔や
昔のやりきれない思い出はある。

それらを回想しては、自分の中で罪悪感たるものを感じることは今までもあるけれど、

基本的に何かに対しての「罪悪感=罪の意識」を
今ではそれほど引きずらなくなった。

そもそも「罪の意識」とはなんだろう、と考えてみる。
というか、それを考察する時に大事になってくるのが

「そもそも、罪とは何か?」というところだと思う。

人は、何かを規制するために、
または何かしらの結果を防ぐ為に
様々な罪に対する罰則をつくってきた。


それは、国の憲法からはじまり、
あらゆるところにまで細かく細分化されている。

大きなところから流れて、
やがて小さなところにたどり着いていくように、


罪という意識は本来もっと大きなところに根源があるんじゃないか、と思う。


例えば、私たちの中には共通の罪意識がある。
人を殺したり、あるいはモノを盗んだりすることに対して
多くの人が同じような解釈を持つ。

そこからどんどん細かくなって
やがて「自分だけのオリジナルな罪と罰」にたどり着くことが出来る。

別名で言えば、ただの「価値観」なのだけど、
こればかりはあるだけでは何も意味がない。


価値観というものは「生かして」はじめて意味を持つし、
どのような価値観であるかよりも、

「どのようにその価値観を使うか」の方が大事だと思っていて。


罪悪感の話から大幅にズレたように思うが、
ここの部分は大切だと思っている。

つまりは、


「結局、どんな考えや価値観を持っていても良い」のである。

でも、ナイフやはさみと同じように
使い方を間違えればそれは武器となってしまう。


罪悪感とは、

自分の中にある「価値観」の使い道を間違えたがゆえに
生じる一種の、傷の痛みなんじゃないだろうか。



もっとシンプルに、
わたしがなぜ罪悪感を感じないかと言うのを一言で説明すればこうだ。


「罪を犯さないほど強い人間ではないから」


またはこうとも言える。


「そこまで出来た人間じゃないし、
間違いや失敗や後悔なんて当たり前にするのが私であるから」


と。


一見するとただの割り切りである。
ただ、それを受け入れているからといって
自分にそれを推奨しているとは限らない。


許可と評価は違うように、

自分のありのままの弱さや醜さをただ受け入れていることと、
その弱さを見せびらかすようにすることは違う。

罪をおかす可能性がある自分だということ。
間違いや失敗をして人様に迷惑をかけることがある可能性を
自分は持っているということを

堂々と受け入れて何が問題だろうか。

そもそも自分の中に


「こんなはずじゃなかった」
「わたしはこんな人間であるべきではないのに」
「なんでこんなことを、わたしという人間がするのか」


と頑なになっている自分がいるからこそ

罪悪感

(自分は罪を犯してしまったが、
そんなはずはないのに…とその罪に対して抵抗する様)


というものが生まれるのだと思っている。

少なくとも、生きている限り
わたしたちは間違いを犯し、
誰かに迷惑をかけ、
支えられて生きていくしかない。

それをどの程度自分の中で許可し、

評価することに重きを置かずに
ありのままの自分にくつろぐことが出来るのか、というのが


罪悪感ととても深い関係を持っている気がする。

なくなりますように、と思わなくなった罪悪感。
感じても良い、そういうのも自分だ、と言えれば


きっとこの負の感情以外のものも
すんなり受け入れることが出来そうである。

 

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