何かを”やった”から安心する
という癖がついていると、
『何もしていない』という時間がただの無駄な時間だと思えてしまって
しっかり休むとか
しっかり寝るとか
何も生まない一見すると”非創造的な時間”を
人生から排除してしまいがちになる。
確かに、現実的な結果というのは
”何をしたか”で決まるだろう。
しかし、人生の充実度は、決してそこだけで決まるわけではない。
意図的に、”何も生まない”という時間をとると、そのスペースに自分の中に無意識的に蓄積した
”ゴミ”が出てくる。
そのゴミは、感じることのしなかった感情かもしれないし、
誰かと過ごしたいという気持ちが叶わなくて”さみしい”という気持ち、恋しいという気持ちだったり、
本当はやりたいこと(なのに我慢してやらなかったこと)への後悔だったり。
お部屋のお掃除をするときは徹底的に”捨てる”はずだ。
何かを生み出す作業ではないが、結果的に綺麗な空間や心地よくてスッキリした空間などが手に入る。
しかし、心となるとそれをむつかしく感じることが多い。
なぜなら、空いた心のスペースに浮上してくる”ゴミ”は、本当は決してゴミなんかではないからだ。
”何もしない”というよりは、”何も生み出さない”時間というのを意図的に取ることが大切だと、近頃ますます思うようになった。
それは本当に何もしない時間ではなく、さらに言えばぼーっとする時間だとか、ダラける時間だとかではなく、
『特別な目的や効果を持たない時間』のことだ。
それをしたからといって、誰かから褒められるわけでもないこととか。
したからといって未来に何かメリットがあるとか、何か形になるものが残るだとか。
そういったことを一切考えないようなこと(の、イメージ)
(この前宿泊した所のベランダにあった温泉。)
日々何かをして積み重ねていくことは重要だ。
でも、その積み重ねが、メインディッシュ系ばかりになっていないだろうか?
創造的でなく、生産的でもないような、”何にもならないような”そんなことを、たまには積み重ねの中に入れ込んでもいいのではないだろうか。
サンドウィッチにレタスが挟まっているのと似ているんじゃないかと思う。
あんまり味しないし、メインじゃないし。(レタスに失礼だが。笑)
ほら、サンドウィッチの具材が主張の強いものばかりだと、やはりくどくなると思うから。
ちょっとした”引き”の時間が、必要だと思う。
何もしない時間、日生産的な時間、というのを意図的にとってみて
その時に出てくる焦りとか焦燥感とか、自分への否定感とかに注目して
忙しないとこれらが出てくることもないだろうから、せっかくだし今はこれらをどんどん出し切ってしまう時間にしよう、
と割り切るとよかったりする。
そもそも、”生産的”かどうかなんて、本当は誰にもわからない。
他者の目線を意識して生きすぎると、生産することばかりに囚われてしまう。
生産することばかりに囚われると、どこか反動で”消費すること”にも囚われてしまうのだ。
意識が常に”生み出すこと”や”形にすること”や、”誰かのためになるようなこと”でいっぱいになってしまうと、
無意識のうちに力が緩むと、その反動で”消費”によるストレス解消を測ってしまう。
一度に、一気に、ではなく
ゆっくりと少しずつ、でいいと思う。
何もしない
ただ存在しているだけ
の時間を取って、普段忘れている空気の美味しさとか、太陽の熱さとか、風の気まぐれさとかの中に、いてみよう。
そんなわたしは最近、ずっと海にいる。